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石貫工務店物語

石貫工務店物語

ちょうどいい家づくりを目指して

石貫工務店代表、石貫希生が、その半生を振り返りながら
目指すべき家づくりについて語ります。

石貫希生

石貫工務店代表
石貫 希生 ishinuki kisei

昭和44年、5月24日生まれ。

1969年

誕生日は5月24日。本当は23日に生まれたが仮死状態で、産声を上げたのが翌日だったため、誕生日が24日となった。医師の先生が、お湯につけたり水につけたり蘇生させるのに大変だったそう。先生からは「この子は一度死んだので、長生きしますよ」と言われたそう。そのせいか、生命線がとても長い。

  • 幼少期
  • 幼少期

1988年

大学時代

福岡大学工学部入学。
理数系が得意なわけではなかったが、とにかく国語ができなかった。それで工学部を選択。

入学後、科目登録をした後、大学側から講義の開始日の連絡がくるだろうと安心して1ヶ月ほど遊んでいたら、すでに大学の授業が始まっていた。 友人から教えられあわてて大学に行くと、同じ学科の人たちに「やっと来たか」と拍手される。 おかげで出席日数が足りず、留年しそうになる(どうにか4年で卒業)。いまでもたまに、留年しそうな夢でうなされ、妻に「大丈夫?」といわれることがある(苦笑)。

  • 大学時代
    所属していた旅研究部のメンバーと
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1992年

社会人

某ゼネコンに就職。
大学が土木科だったため、建築で採用していただけるように直談判し、建築で採用となった。北九州で半年研修したあと、大阪本社勤務となる。

就職して2年目、週末会社に呼び出され、部長に金沢の観光ガイドブックを見せられながら「いいところだから金沢に行ってくれないか?」といわれ「あ、はい」と二つ返事。 「それでいつからですか?」ときくと「明後日から2〜3日の着替えだけ持ってとにかく行ってくれ」と言われ金沢へ。現場監督は、こうやって飛ばされていくのだと初めて知る。

金沢は、突貫工事の現場で、部長に持たされた観光名所など回れるわけもなく仕事漬けの日々。しかし、忙しかった日々が突然終わる。会社が当時戦後最大となる負債を抱え会社更生法の申請(負債総額約6000億円)、現場は完全にストップ。3か月ほどすることがなかったため、会社の先輩とスキーばかりしていた。現場は工事完成保証をしていた別のゼネコンが引き継ぎ、そこのスタッフとして竣工まで働いた。

1995年

その後、このゼネコンに就職。そして名古屋に転勤となる。
この時食べた味噌煮込みうどんが舌に合わず、しばらく赤みその味噌汁は飲めなかった(味噌カツはおいしかったが…)。

1年ほどして、阪神淡路大震災が起きる。災害復旧も兼ねて、大阪支店へ移動となる。帰りの終電にも乗れないほど忙しい日々を送る。最高で月の残業時間230時間を記録(よく倒れなかったものだ)。しかし頭に円形脱毛ができた。回りに心配をかけない様に剥げた部分を黒マジックで塗っていた。

この時知り合った施主で、同年代の人と意気投合し、会社を立ち上げることとなる。自分の会社には内緒の為、私は監査役として参加。何の会社かというと、ウエディングドレスのデザイン制作・レンタルの会社。まったくの畑違いである。10年後に解散したが、会社が存続しているときに結婚したためウエディングドレスはつくってもらえた。

1999年

別会社の監査役をしながら東京に転勤。栃木県のツインリンクもてぎサーキット場に配属となる。
人気の現場だったらしいが、私が配属となった。人気の理由は、お金が掛からずレースを見られるから。配属の理由が、私が車にまったく興味がなかったため、「こいつならちゃんと仕事をするだろう」と会社側は思ったらしい。

ここでの仕事は、建物のメンテナンス。今後の新規物件のために待機していたのだが、そのほかに国際レースに際に、パドックで各選手や関係者が使用する作戦本部の仮設ユニットを設置したりレースに関する準備もしていた。

あるとき海外のレースチーム作戦本部のエアコンがきかないと連絡を受け行ってみると、使い方がわからないだけで機器は正常に作動していた。先方のスタッフから怒っているような話しぶりで詰め寄られたので「ちゃんと説明書を読め」と応酬。…日本語で。部屋を出た後同僚に、ここが、ケニーロバーツjrの部屋だったことを教えられる。ちなみにこの大会の優勝者。あとで、主催者側から上司が怒られたらしい。

この町に居酒屋は二軒しかなく、これといった娯楽施設はなかったがゴルフ場はたくさんあった。業務内容の関係で休みが平日だったため、同僚とゴルフ場によくいった。そのためこの時の最高スコアは75(今はとても無理なスコア)。

夜は何もすることがなかったので、1級建築士を取得しようと猛勉強。2年かけて見事合格。

  • ツインリンク茂木時代
    ツインリンクもてぎ時代。F1マシンの乗る女性がこのあと妻に。
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2001年

栃木に来て2年目、田舎の母から「父の体の具合がよくなく、お前が帰ってこなければ実家の工務店をたたもうと思う」といわれ、退職して熊本の実家に帰る決意をする。帰ってみると、父親は意外と元気で、みんなこんな感じで後を継ぐのかも…と自分自身納得。この時、サーキット場で受付をしていた女性が一緒に帰省して私の妻となる。

ということで実家の工務店の仕事を手伝うようになる。大工仕事はできないため現場の管理や設計が仕事。ここから住宅の設計を勉強し始める。この時参考にしたのが「宮脇檀の住宅設計」という本。この本を参考にプランニングしていた(この時はわかりやすい住宅の教科書になるものはこれしかなかった)。 あとは住宅展示場を見て回ったりしていたが、当時はこういう住宅がお客様の望むいい家なのだと思っていた。

住宅業界にタ○ホームがあらわれ、“坪単価”という住宅の価格に対する考え方が一般ユーザーに浸透するようになる。地元にもローコストビルダーが現れ、住宅を検討する際に引き合いに出されるようになる。 自社は和風の住宅が多かったため、ローコスト住宅の価格で和風住宅を建てるのは難しく苦戦することとなる。この頃は性能的にもまだまだで、次世代省エネ基準ですら満たせない状況だった。

  • 『宮脇檀の住宅設計』

2006年

建築家伊礼智について

最初に伊礼智氏の名前を知ったのは「JAPAN ARCHITECT」という年4回発行される季刊誌だった。色々な奇抜な作品の中に、とても普通の住宅(東京町屋9坪の家)が掲載されていた。

この時、正直なぜこのような普通の住宅が?と思った。写真だけでは読み取れなかったが、この住宅にはきっと何か写真や文章では伝えることができない何かがあるような気がした。 気になる建築家の1人となった。

建築家 伊礼智/伊礼智設計室 : https://irei.exblog.jp

2008年

娘の誕生に伴い、自宅を新築。
それまで、和風建築が多かったので、少しモダンな建物にしようと思いハウスメーカーの真似事のような家を建てる。それから友人先輩後輩から仕事の依頼が来るようになる。

この時は、ハウスメーカーのような雰囲気の住宅を価格を抑えて建てることが、工務店のあり方なのだと思っていた。お客さんの要望に応じて和風洋風いろんなタイプのデザインの家を建ていた。お客様の要望するものを建てて、喜んでいただけたら、それが一番だと思っていた。
しかし、こうして器用にお客様の要望に応えることで、会社の個性は失われていくことになった。

2009年

「伊礼智の住宅設計作法」を書店で見つけ、名前を見たときに「あの時の建築家だ」と思いだしおもわず購入。敷地の読み方、プランニングの仕方、とても分かりやすい内容だった。なによりも感動したのは、伊礼智氏の人間性。これだけ有名な建築家なのに、傲慢さがなく、住宅のおさまりについても、大工さんがおさめやすいように検討されていて、尚且つ美しくおさめてある。

この時から、この本を愛読するようになる。宮脇檀氏の本とこの伊礼智氏の本は、読みすぎてボロボロになった。
いつかこの人に会いたいと思うようになる。

  • 伊礼智の住宅設計作法
    『伊礼智の住宅設計作法』

2013年

営業力の乏しさを痛感し、住宅営業のセミナーに参加するようになる。
ここで初回接客のしかた~クロージングの仕方を学ぶ。もともと私自身は技術的な仕事が大半な工務店には営業はいらないと考えていて、資金計画のスキルがあれば、大手住宅会社の営業マンがする仕事を自分がすることによって住宅の性能向上に費用を転化できると考えてのことだった。このセミナーのおかげで、受注が安定するようになったが、その代わりにいろいろなタイプの住宅を求める方が来社するようになってしまった。全国区のハウスメーカー風から地元パワービルダー風に至るまで、希望するスタイルはバラバラであった。しかし、このことで「本当に建てるべき家はなにか?」ということを真剣に考えることとなる。

大抵のお客さまが持っているいい家のイメージは、住宅展示場で刷り込まれたハウスメーカーが考え出した家である。日当たりを強調するあまり必要以上に取り付けられた窓や、明るいことと豊かなことを混同したような過度に取り付けられたたくさんの天井照明、地域性にそぐわない過度な断熱性能、新建材でできたユニット建具、様々な柄の外壁材…これらを使用することでオンリーワンの個性ある住宅を建てるのが、ハウスメーカーの考えるいい家といってもよい。 雨の多い気候を配慮せず屋根の軒を出さないシンプルモダン住宅という名のデザイン。断熱性能もとにかく高い数値が出ればいいという考えのもと、断熱材の耐久性はふまえず引き渡したときにある程度の性能が出て見てくれがよければOKという考え方。個性を主張するあまり景観を無視したような外観や何種類も色をつかった壁紙。メーターモジュールを採用することによって家を広く感じられるという謳い文句。…そんなハウスメーカーの家づくりに疑問を持ち始めたのが、この頃だった。

営業セミナーでは、短期間で契約~工事を行い、効率よく売り上げを上げることが住宅営業の仕事であることを指導された。営業セミナーで教えられたことは、ハウスメーカーと同等の仕様や性能を有した家を提案し、営業のスキル・プレゼン力で契約獲得するということ。家の性能はいいのだが、住まいの心地よさや街並みに配慮した住宅のあり方は一切語られない。性能の良さとお客様の要望を満足させるのがいい家のあり方であって、営業マンがこれらの住宅を提供するのが、営業の使命だと教えられる。これはこれで、営業の仕事をする人にはいい目的付けになるかもしれないが、なにかしっくりこなかったのが正直な感想だった。

そのようなハウスメーカー風の家づくりが良しとされる中で、内観や外観も際立った色使いではなく、ふつうでいい。広くなくては豊かでないという考え方ではなく、ちょうどいい大きさでいい。自分自身が営業手法を学んだことで、より真摯にそう思うようになった。営業セミナーの講師たちは、お客様の要望に応えてお客様を幸せにする。私もお客様を幸せにするという目的は同じだけれども、要望に応えるために街並みにそぐわない奇抜なデザインの家や、予算に合わせてローコストで済ますためだけに軒も出さない箱みたいな家はつくりたくない。

今作っているのは、いい家なのか?お客様が要望することを叶えればいい家なのか?…

自分自身がいいと思う家とは何か、見つめ直しお客様に伝えて行かないと地域の風景がなくなり、多国籍風な街並みになるのではと思いはじめる。これも地元の工務店の担う重要な役割だ。地域の持つ風景や景観、家自身の佇まい、植栽をすることによって風景に溶け込ませたり、経年変化しても地域の雰囲気に馴染むような外観にしたり。窓を閉め切って少ない光熱費で効率よく暮らすより、窓を開けて自然の風の心地よさを感じて暮らして欲しい。普通で当たり前なことを、設計のひと手間で取り入れながら、住まい手に受け入れられる住宅を模索したいと強く思い始めていた。

2014年

このような家づくりに対する疑問が出てきたころ、偶然知り合いの工務店から建築家から設計を学ぶセミナーがある事を教えてもらう。ネットで調べてみると、私がずっと会いたいと思っていた建築家、伊礼智氏の「住宅デザイン学校」であった。

2015年

建築家伊礼智氏の住宅デザイン学校に通うようになる。伊礼氏の実際の物件を見学し、改めて住宅の素晴らしさを知る。そしてこの学校には、全国から優れた住宅設計者が集まり、自分の設計を考え直す機会となる。自分の中で「いい家」のありかたが、だんだん明確になってきた。

  • 伊礼氏による住宅デザイン学校の設計教室を受講(最後列・左から5人目)
  • 伊礼氏代表作の「守谷の家(2014年グッドデザイン賞受賞)」を見学

2016〜2017年

私が「いい家」と思うあり方が、すべての方に当てはまるわけでもなく、また、私の考えを押し付けるのも傲慢だ。それなら自分の考え方を明確に発信して、共感してくれる方に出会えるようにするしかない。自分がいいと思う家とそれを望むお客様をどうマッチングするのか、集客するのか? それを学ぶため、住宅デザイン学校を運営する会社が企画したブランディングのセミナーを受講した。

ここで学んだことを実践すべく、まず手始めに事務所を改修。伊礼氏の語る「いい家」の3要素である「低い天井」「光の重心を低くした照明」「開口部のあり方」を取り入れ、自社の考える家つくりの一部を体感してもらえる空間とした。すると「こんな感じでお願いします」と依頼されるようになる。

事務所の空間を受け入れてもらえたことで、自分のやりたい家づくりに少し自信を持てるようになり、地域性にそぐわない過剰な性能や必要以上に大きな家を作る必要はないと考え、「小さくても居心地よく、ちょうどいい大きさの家」の提案を心掛けるようになる。モジュールも1910mm〜1820mmを基本とした。

改修した事務所
  • 伊礼氏と同じ課題に挑戦する「即日設計」の様子
  • 住宅デザイン学校2017年度・設計教室上級編にて「最優秀賞」を受賞

設計教室の様子はこちらにも掲載されています

そして、これから

私の考えるいい家とは、心地よく暮らせたり、落ち着くための居場所であり、他人を驚かせるような奇抜なデザインではない。なんとなくその土地の風景にマッチするようなたたずまいの家。雨で汚れを流す外壁を使っていつまでも新築同様の外観を求めるようなことはせず、住む人が歳を重ねるように、家も経年変化していけばいいと思う。

これからはこうした「普通で、ちょうどいい、ひと手間掛けた家つくり」を家つくりのモットーとしようと誓う。普通に昔からあるいい家つくりの知恵や材料を使い、住む人のスタイルや家族構成に応じたちょうどいい大きさで、技術・設計力・アイデアにより普通で当たり前な家つくりをする。それが地域で生きる工務店のあり方だと心から思う。